道路交通法の改正と歴史 その5
1955年(昭和30年)
何と言っても、時代は高度成長期です。
1955年(昭和30年)、通産省(現・経済産業省)の「国民車構想」が新聞で伝えられました。
通産省が出した、国民車の定義とは、
- 4名が搭乗した状態で時速100 kmが出せる(ただし、定員のうち2名は、子供でもよい)
- 時速60 kmで走行した場合、1リッターのガソリンで30 kmは走れる
- 月産3,000台(構造が複雑ではなく、生産しやすいこと)
- 工場原価15万円/販売価格25万円以下
- 排気量350 ~ 500 cc
- 走行距離が10万 km以上となっても、大きな修理を必要としないこと
- 1958年(昭和33年)秋には生産開始できること
1956年(昭和31年)、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれ、日本の経済は順調に成長していきます。
1958年(昭和33年)
1958年(昭和33年)、ついに富士重工が国民車構想をほほ満足させる、「スバル360」(1970年まで販売しつづけた)を発売します。
これに続き、1959年(昭和34年)9月、鈴木自動車工業(現・スズキ)もスズライトをモデルチェンジした「スズライトTL」を発売。
1960年(昭和35年)池田内閣の所得倍増計画を発表。
東洋工業(現・マツダ)がマツダ・R360クーペを発売。その後、1962年(昭和37年)10月には、新三菱重工業(以下新三菱。現・三菱自動車工業)が三菱・ミニカ。1966年(昭和41年)にはダイハツ工業が「フェロー」と、いよいよ車が大衆のものになっていきます。
1960年(昭和35年)
1960年(昭和35年)、道路交通取締法が廃止され、現在と同じ「道路交通法」が施行されます。 1963年(昭和38年)、名神高速道路の開通に合わせ、高速道路に適用される特別規則が整備される。 1964年(昭和39年)はオリンピックの年です。 日本はこれを機に、世界の先進国へ返り咲こうと、交通規則も世界基準に変更します。
道路交通に関するジュネーブ条約への加盟に合わせ、交通ルールが大幅に改正されました。
- 追い越しなどのために道路中央を空けるキープレフトの原則が、一般道に導入される。
- 車種ごとに通行車線を分けていた車両通行区分帯が廃止され、車両通行帯とされる。
- 優先道路が定められる。
- 特殊自動車の区分が廃止され、大型特殊自動車及び小型特殊自動車の区分が新設される。
1965年(昭和40年)、自動二輪車は高速道路で、ヘルメットの着用が義務化されて2人乗りが禁止されます。一般道でのヘルメット着用は努力義務規定。
1966年(昭和41年)、トヨタから今でも名が残る世界の大衆車「カローラ」が発売されます。
1968年(昭和43年)
1968年(昭和43年)、交通反則通告制度が定められる。
交通違反も犯罪ですから、本来は警察に捕まっても裁判をして判決が出るまでは罪状が確定していませんから、罰金はおかしいわけです。 でもこの法律で、軽微な交通違反なら警察が捕まえて、認めれば罰金を科せるようにした法律です。
二輪の免許は、二輪車と原付だけという一番シンプルだった時代。 昔の人(軽免許・軽二輪・原付二種所持者)が繰り上げで自動二輪(現:大型自動二輪)を貰えたのはここまで。
自動車の増加とともに増えるのが交通事故です。 交通事故は増え続け、1970年(昭和45年)には一回目のピークになります。
負傷者98万1096人、死者1万6765人を記録しました。
人口も変わっていますから人口比で見ますと、人口10万人あたりの死者は16.33人。 1959年(昭和33年の10.95人から74年の10.52人まで、16年連続で10人を超えました。
ちなみに、2017年の交通事故死者は3694人。死者数は4分の1以下に減少しています。
シートベルト着用の義務、飲酒運転の厳罰化、道路整備など、バブルのころを2回目のピークにして、交通事故は減り続けています。
10万人あたりの死者は遂に3人を切ることができ、2.91人を記録しました。人口比では5分の1以下です。
この年、酒気帯び運転に罰則が復活されます。
ほかには、大型自動車に関する乗車定員が11人以上に改められ、マイクロバスが大型自動車へ。
「二輪の自転車」の歩道通行を道路標識による指定を条件に認め、自転車道の定義が新設されます。
1972年(昭和47年)
1972年(昭和47年)、初心運転者標識(初心者マーク)が導入されます。
自動二輪車運転者(同乗者も)に対して、最高速度規制毎時40㎞/hを超える道路でのヘルメットの着用を義務化しました。(罰則等なし)