「道」の話 ②~道路の考察

塩の道

塩の道

民俗学者・宮本常一の本に、「塩の道」という名著があります。

そこには人間の生活には欠かせない「塩」をめぐる人々の歴史と知恵が描かれています。

宮本常一(みやもとつねいち)は1930年代から亡くなる1981年代まで、日本各地をフィールドワークした著名な民俗学者であり、変わったところでいうと作家・作詞家・タレントの永六輔の師匠とも言える人です。

永は早稲田大学で宮本の下で歴史学・民俗学を学んでいました。でも放送への道も捨てられず、自身が放送の道へ進むことを報告すると、「君が放送の仕事で生きるのならば、電波の届く先に出かけてそこで考えて、そこで考えた事をスタジオに持ち帰ってください」と言われたことを、ことある毎に口にしていました。

塩がどのような道をたどって人々の口に入るか

古代、一般的には農耕が始まる前、人々は現在のような定住はせず、根拠地を持ちながらもいろいろな場所を移動しながら生活していたと言われます。

動物や植物を狩るために石器が作られ、獲物をさばくための刃物が作られます。

はじめは石を割ったものですが、どんどん精巧なものになっていきます。

硬くて切れ味の良い材料が発見されていきます。

例えば、獲物を捕る弓矢の矢じりは大変貴重なものでした。やじりに使う硬くて切れ味の良い材料は、黒曜石とサヌカイトです。

黒曜石は、北海道の北見と十勝、長野県和田峠、静岡県伊豆の東岸、島根県隠岐、大分県姫島、長崎県が産地となります。

いろいろな集団が交易を通じて、こういった材料を得ていたことがわかっています。

鏃(やじり)や刃物が作られ、取った獲物や植物を煮炊きするための土器が作られました。

土器の発展は生活様式に様々な革命を生み出します。そしてその土器で海水を煮詰め、塩を精製したのです。

貴重な塩

生物にとって、塩分は大切です。

何より風味や味を引き立たせるため、食料を腐敗から守り保存するため、近年に至るまで塩はとても貴重品でした。

狩猟時代は肉や血には塩分が入っているため、現在の人々ほど塩を取っていなかったと思われます。

日本でも少ないながら岩塩があったり、温泉に溶け出した岩塩から取る山塩などはありました。

山の中に住む野生動物は日常的に塩を取っていませんので、塩が大好物です。

野生動物の移動は、塩味を含んだ水を求めて行われますし、上記した「塩の道」でも、野宿をして周りの立木に小便をすると小便に入っている塩を求めてオオカミが来ることが書かれています。

近年、人家の近くへの野生動物の出現が問題となっていますが、冬場の道路凍結防止のために撒く融雪剤は塩化カルシウムであり、この融雪剤を舐めて、野生動物が増えているという説もあります。

塩の交易

人間社会も農耕が始まり穀物主体の食生活になると、カリウムを輩出するためにより多くのナトリウムが必要になります。

農業が一般的になると、塩の消費量も増えていきます。

幸い日本は海に囲まれているので、海からの塩は手に入りやすくありました。

はじめは海藻などに付着した塩分が乾燥し、それを調味料のように使っていたと考えられています。

土器が発明され、海水を煮詰めて塩を取る方法が発明されると海の近くの人が塩を精製し、ほかの地域の人々へも塩をもたらす交易が行われます。

その、塩の交易ルートが「塩の道」です。

有名なのは、新潟の海で取れた塩を糸魚川に沿って長野の山岳地方まで運ぶ千国街道、静岡、愛知の沿岸で取れた塩を同じく長野に運ぶ秋葉街道・三州街道が有名です。

執着店の長野県・塩尻は、塩の流通の尻(太平洋側からと日本海側からの塩の終着点)にちなんで名付けられた地名です。

定住しないことによって道を拡大

もちろん完全には定住しないで、移動しながら生活することを選択する人々もいます。

マタギと呼ばれる熊の狩猟を主にする人や、一部にサンカと呼ばれる籠や蓑を作成・修理しながら生きる人々もいました。

マタギは秋田から山沿いを山形、新潟、群馬、長野まで移動し、何か月もの間、熊を追っていました。

九州・宮崎にも近年まで、冬の終わりから夏にかけて、籠や蓑などの製品を制作・修理しながら移動する人々がいたことが記録に残っています。

そういった人々の土地や地理への知識が生かされ、道は深められていきました。

土器の発達、農耕による人々の定住、定住による分業化、交易と、いろいろなものが「道」を通って発展していきました。