道路交通法の改正と歴史 その2
1919年(大正8年)
すっかり前置きが長くなりすぎました。すみません。
日本の道路行政、交通法規の続きです。
1919年(大正8年)、欧州全体は第一次大戦でものすごく疲弊しました。
遠く離れた日本はまったく被害を受けないまま、棚ボタで戦勝国の仲間入りをします。
日露戦争、日清戦争での勝利に続いて、第一次大戦での戦勝国。 日本のイケイケは止まらなくなります。
疲弊した欧州の穴を埋めるべく、日本にもお鉢が回ってきます。
世界初の大量生産による自動車、「T型フォード」は1908年から1927年まで作られました。
車は日本にも入ってきています。どんどん増えます。
当然自国でも車を開発しようと、日本車初の量産乗用車「三菱A型」が三菱造船によって誕生したのもこの年です。
同年1月11日、「自動車取締令」
「運転手免許」制度を全国的に統一。資格年齢は18歳以上。有効期間は5年。現在のような更新制度はありません。 地方長官による行政処分制度を、運転免許制度に付随する制度として採用します。
1920年
翌1920年(大正9年)12月、「道路取締令」
初めての全国統一の交通法規ができます。
主な内容は、「人も車も左側通行してね」というものでした。
ちなみにこの「左側通行」、現在、左側通行を採用しているのは、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、インドネシア、インド、南アフリカなどです。イギリスの影響があった地域は左側通行ですね。
一方、右側通行はイギリス以外のヨーロッパ、北米・南米大陸、中国、韓国、台湾、ベトナム、アフリカ諸国などです。
アメリカも当初は右ハンドルの左側通行だったという話ですが、T型フォードが左ハンドルだったために、徐々に左ハンドル、右側通行になったという話です。
1925年
1925年(大正14年)には、 アメリカのフォード・モーターが横浜に工場を設立し、続けて1927年にはゼネラルモーターズが大阪に工場を設立。
両社とも他国から主要部品を輸入し、現地で組み立て・販売を行う「ノックダウン生産」という形で大量生産を行い、太平洋戦争直前まで操業しました。 日本を拠点に、アジア全域で車を売ろうとしていたようです。
時は移って昭和に変わり、1933年(昭和8年)、事故防止を組織的に推進するためとして、警察の指導により、広島、静岡、岐阜、福岡、愛知などの府県で「交通安全協会」が結成され始めます。
免許更新に行ったときに「入ってください」といわれるアレです。
結構歴史は古いのですね。
その後、「交通安全協会」は、地方の運送事業者、車の所有者、運転者等を会員として全国的に設立が進みました。
同年8月18日、「自動車取締令」全面改正。
免許は「普通」「特殊」「小型」の三種類になります。 この頃はまだ二輪免許というものは無く、車に付帯する形です。
車の免許を取ると、オマケで付いてきたのですね。 そしてバイクに乗ることに必要だった免許は一番下の小型で、当時15歳以上の人は申請だけで、試験もなく取得可能でした。
とは言うものの、この頃は車自体が珍しい時代で、バイクに至ってはホンダはおろかメグロすら存在しませんでした。
日本内燃機(後に日産へ吸収)や宮田製作所(現在、消防車シェア1位のモリタ宮田工業。消火器で有名)がトライアンフをモデルとしたバイクを少し作ってたくらいです。
ぜんぜん進みません。。。つづく。
日本初の量産車 三菱A型