「道」の話 ③~道路の発展

道こそが情報

道こそが情報

集落と集落とをつなぐものが道でした。

ぐるっと見渡せる空間から、生涯一歩も出ずに人生を終える人はたくさんいたでしょう。

道はどこからか来て、いずこへと繋がる異世界への道でもありました。

中央集権国家ができてくると、伝令や中央からの人間が集落にやってきます。それに伴う文明や文化ももたらされます。

道は古代のマスメディアであり、インターネットでした。

道と道が重なる辻には市が立ち、集落を便利にしてくれる良いものも、伝染病のような悪いものも、すべて道が運んできました。

ですから、集落に災いを持ち入らせないよう、集落の入り口には道祖神が立ち、道祖神と習合した地蔵菩薩が建てられたのです。

七道駅路

古代の道路のほとんどは自然発生的にできたものでしたが、国家が形を成してくると人為的に道路を整備しはじめます。

平城京や平安京の建設など、畿内に中央集権国家が形を成してくると、軍事的・政治的にも地方を支配下に置くために道路を整備しました。

畿内から全国へ放射線状に伸びる「七道駅路」、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七つです。

この時代の30里(今では約16キロ)毎に駅舎が置かれ、馬を乗り継ぎ伝令を伝えていきます。道は整備され、道幅は最小でも6メートル、最大で30メートルあったと言われます。

ですが、伝令をなるべく早く直線的に走らせるために周囲の人々の生活道路とは違った経路となり、整備・補修にも人手やお金がかかり、律令国家の衰退とともに、野に埋もれてしまいました。

この後も鎌倉時代に作られた鎌倉街道などがあり、生活道路や江戸時代の街道として残った場所もありますが、現在では完全に痕跡を探すことは困難になっています。

七街道

江戸の五街道

現在に続く道路が、本格的に整備されるようになったのは江戸時代です。

江戸幕府を開いた徳川家康がはじめに行ったのは、運河と道路の整備でした。

河川や道路の整備は物流だけでなく、戦国時代を終わらせ、ふたたび安定した中央集権国家を築くためには不可欠と考えました。

江戸から諸国へ通じる街道の中でも、特に重要視したのが、東海道、中山道(なかせんどう)、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つです。これを五街道と呼び、すべての起点は江戸の中心地である日本橋となりました。

現在も、東海道は国道1号線、中山道は国道17号線、日光街道・奥州街道は国道4号線、甲州街道は国道20号線が道路を継承しています。

街道には2里から4里の間に宿場を置き、1里ごとに土を盛り、目安となるよう一里塚を設けました。

マラソンなどをやっているとわかると思いますが、人間はだいたい時速4キロくらいで歩きます。

約2時間ごとに休憩ができ、日の長さなどによっては宿泊もできるようにしました。

また、街道沿いには並木を植えることも命じられました。夏には木陰になり、冬場でも葉が落ちずに風雨をしのげるために、松や杉が多く植えられました。

五街道は重要視され幕府の直轄でもあったので、整備は行き届き、幕末に日本を訪れた外国人も驚いたほどです。

明治期に日本を訪れたイギリス人女性の旅行家・探検家・作家のイザベラ・バードの「日本奥地紀行」にも、その様子が描かれています。

五街道は主に参勤交代などに使われていましたが、戦のない世の中が続き江戸中期になると、庶民が温泉旅行や各地の寺社仏閣を詣でる旅に使用するなど、宿場町はだんだん大きくなっていきました。